「見沼田んぼと世界からの学びで未来を考える」
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「見沼田んぼと世界からの学びで未来を考える」が、2012年3月18日(日)浦和コミュニティセンター 第10集会室を会場に、関係性の教育学会と持続可能な開発のための教育の10年さいたまの共催でひらかれた。
風の学校の初期メンバーの寺床純三さん(見沼・風の学校スタッフ/東京大学職員/日本ボランティア学会会員)と子どもの時から農園に通い、平日の障害者団体の有償ボランティアをしている高橋幸宏さん(見沼・風の学校スタッフ/埼玉大学学生)に、見沼田んぼの営農集団見沼田んぼ福祉農園と、そこを拠点とする農的若衆宿「見沼・風の学校」についてお話をいただいた。寺床さんは大学4年のころ、高橋くんは子どものころからの関わりとのこと。現在、高橋さんは平日にも農園に来ているとのこと。
浦和に住んでいるが、浦和はベットタウンといわれていて、東京へ通勤していると寝に帰るだけのように感じる。首都圏に東北14km 東西10 km、1260ヘクタールの大規模農的緑地空間があるのはめずらしい。芝川そして水辺、斜面林、見沼代用水といった多様な空間が里山を構成している。氷川女体神社や通船掘があり、龍神伝説が伝承され、獅子舞では龍が舞う。歴史も残っている。享保年間に用水がひかれ、見沼が開墾された。見沼の代わりなので代用水といわれる。
このような緑地が保全されたのは、政策の結実である。1958年の狩野川台風による被害を川口市は受けたが、その際、見沼田圃は芝川の遊水池としての役割を果たしたことにさかのぼる。1965年、公有地化・保全計画が決定される。現在は1995年に定められた見沼田圃保全・活用・創造の基本方針によっている。
1980年代半ば、見沼田んぼを愛する会との出会いのなかで、福祉農園構想ができ、1999年に実現をみる。当初、耕作放棄地であり、荒れ地で雑草がはびこっていた。開墾は人手でなされ、苦土地石灰を大量に入れた。第2および第3農園にはビオトープや池がある。水はけのためにつくったが、十分でなく、伝統的な竹と竹ソダを使った暗渠排水も施工した。
福祉農園には、複数の福祉団体が関わっている。継続的な運営がなされている。多彩なボランティアが関わることも特色である。
高橋さんは、デイケアわくわくの仕事の一環としての有償ボランティアとして、作業のサポートとヘルプをおこなっている。福祉農園の近く歩いて10分とかのところにある喫茶店など、週2日とか3日、野菜を販売している。一輪車に乗せていく場合もある。
「障がい」をもっている方でも何でもやるのが前提、耕耘機も使っている。車椅子の方でも、マットをひいて、土に触って作業をする。
風の学校は農的若衆宿となっている。人づてでひろがり、ネットや講座の参加が契機となる場合もある。会員制度ではなく、週末に農園整備作業や管理地の畑作業をおこない、人手が必要な場合、イベントをおこなっている。他方、先人に聞き書きをしたり『見沼学(みぬまなび)』の発行もおこなっている。シニア・ボランティア(百姓先生)や農業者大学校の卒業生で農家の後継者(若手農家)また、農業機械整備の技術を持つ人に教科書ではなく誰々さんのやり方として教えてもらっている。大学のインターンは、かつて埼玉大学から要望がありなされたことがあるが、現在は、なされていない。双方に一致しない場合があり、おうおうにして一過性となる場合が多い。
開設当初は、農業少年団があったが、今はできていない。若者宿には、常時、20人ていどが関わっている。1泊2日、春、夏、冬は耐寒若衆宿となる。電気、ガス、水道はないが、一週間のサバイバルキャンプも実施する。
火をつかえるところが面白いところ。カマドがあり、近所の農家からもらった剪定材を燃やす。薪の灰は食器の油を吸着させる。洗剤をつかわない。最初クワが使えない学生もおり、多くを学ぶ。
ここでは、もどし続ける農業、市道・公園の剪定材をたい肥として大地にもどす資源循環型農業行っている。雑草をたい肥し、わらもさまざまに使っている。
農の主体者は農家のみでない。福祉農園には多くの人びとが関わるようになった。ロータリークラブのみなさんは、じゃがいも堀のイベントの企画にも加わった。
進士 五十八によれば、農は環境福祉の人と人とのつながりを生むという。福祉農園と農的若者やどは多様性の未来を構想する。
質疑から:きっかけはどうか。きっかけは、友だちつながり、遊びに来ないかといわれ行ったら、こうなった。仕事で地域のことをしたいが、仕事でなくともここがあると思うようになった。日ごろ、会う人がきまってきてしまう。この2人も出会うはずがなかった。これがあるから、出会うことができたようなもの。
都市の近くにこのような土地があったとは意外だった。人は土いじりが好き。都会の近くには、なかなかこのような環境はないだろうが、障がい者もおられて、社会とかかわりたいという気持ちと土いじりをしたいと気持ちが一致したのではないか。環境半島学をしている。大学とか企業との可能性はある。自分たちのところにも、よく学生が卒論のためにくるが、長続きしない。自分の地元で学生が自分が関われるかどうかだろう。永島敏行さんが千葉で青空市場をおこなっている。
農業法人化したらどうかともいわれるが、課題は、スタッフの専従化と、キャパシティがあるかどうか。地域のなかで学校とか協議会をつくりながら、環境教育とかもしながらすると福祉からひろがりがでる。イワナもつかんだり、さばいたり、炭火のくし焼にしたり、地元の学校もまきこんでやっている。人口減で、はたらく場所がない。都市も空洞化しているので、遊びごころがある子どもをとりこんだらよい。自分の育ったところを再発見する必要がある。いきなり、多様性の未来へは、、、、無理かもしれないが、月1回農業少年団講座に参加していたのが10年後に戻っているのがよい例であろう。